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素敵な先輩

更新日:2023年10月17日

第1回 大切なのは記録に残す事

神奈川支部支部長  小関温子


稲生襄先生から入会を誘われて

私が日本女医会に入会した時期は2005年頃だったと記憶しております。大先輩の稲生襄先生から突然のお電話は、日本女医会神奈川支部に入会していただきたいとの内容でした。当時は日本女医会がどのような活動をしているのか知らず、興味もなかったのですが、熱心なお誘いを断れずに入会いたしました。その後は、稲生先生は神奈川支部の総会、懇親会には必ず「参加しなさい」と声をかけてくださいました。


大竹輝子支部長のもと、神奈川県で定時総会を開催

入会して間もなく、2007年の第52回日本女医会総会を神奈川支部が担当することになりました。当時の神奈川支部長は大竹輝子先生でした。大竹先生は絵画、書道、短歌等多岐にわたり素晴らしい才能をお持ちでした。海外に出かけてまでも絵筆を持たれていたようです。小柄でしたが、産婦人科医としてもご活躍、家庭や育児にも手抜きをされず、何事も一生懸命つくされていたようです。ご子息が聖路加国際病院の整形外科医だったことから、故日野原院長のご厚意もあり、ご自分の絵画の展覧会は聖路加国際病院の一隅で開催されておりました。


中島幹恵先生はじめ才能豊かな会員が集った「神奈川支部だより」

支部の会誌「神奈川支部だより」を2年毎に発刊していましたが、表紙はいつも一凛の美しいお花でした。私はこの表紙が放つセンスが、大竹先生とそれを支えていられる役員の先生方なのだと感じました。そして、その才能豊かな女性医師が日本女医会を発展させてきたのだと感動を覚えました。短歌のお好きな先輩も数多くいらしたようですが、今でも会員の中島幹恵先生は医師会会誌に投稿されて賞をお取りになっておられます。


「記録に残すこと」の大切さ

入会を勧めて下さった稲生先生はいつも「記録に残すことが大切だ」とご教授くださいました。稲生先生は、小児科医として地域医療に貢献されておりましたが、心電図の勉強会や英会話の会といった神奈川支部の同好会活動にも熱心で、長い間続けていらっしゃいました。私にも必ずお声をかけていただきました。同好会の会員も徐々に高齢化して、講師の先生もいなくなり現在は中止されています。また、経費節約のためにご自分で手書きの記録を作り、各先生方に直接お届けされていたことも伺いました。先生は大切な記録を実践されていました。お写真好きだったのか、日本女医会総会、国際女医会議、各県支部での総会・懇親会などで着物姿や華やかなお洋服の写真等を沢山見せてくださいました。


小児科医としての日常臨床医と子育てだけの狭い社会生活のみで精一杯だった私には、日常がほんの少し別の世界への興味を持たされたような機会でもありました。


新しい時代を切り開くのは若い世代

さて、神奈川支部がどのような活動をするべきなのか、総会の準備はどうすればいいのか調べはじめましたが、資料と言えば神奈川支部の会誌「神奈川支部だより」と上記の先生方のお話だけでした。神奈川で総会を開催するには、時代の流れと共に思い切った行動と新しい企画が必要と考え、若い先生方に声がけして日本女医会神奈川支部に入会していただく活動を始めました。定時総会を開催する前年の2006年に、現会長前田佳子先生にも神奈川支部に入会していただきました。


公開講演会講師を田中康夫氏に依頼する

支部長の大竹先生の声がけで役員をそろえ、多数の意見を聞きながら運営していく会を開催しました。まず特別講演の講師をどなたにするかが問題でした。当時、2002年に長野県知事に就任した作家の田中康夫氏の活動が日本全国で注目されておりました。前田先生の提案で田中康夫氏に交渉することとなりました。


当時はパソコンの時代ではなかったことから田中氏には手紙で依頼状を出したとのことでした。田中氏は2003年12月に膀胱癌で膀胱全摘手術を佐久総合病院で執行したことを公表しておりました。執刀医はかつて東京女子医大の泌尿器科に在籍していたことがある医師でした。泌尿器科学会で有名人を講師に呼びたい旨があり前田医師は教授に田中氏が膀胱癌だったのでお呼びしてはと提案したところ手紙で依頼状を出した経緯から、日本女医会総会の講師にも手紙で依頼状を出したところOKのお返事をいただきました。


再び、設立時の目標「女性の地位向上」を目指して

会場はパシフィコ横浜でしたが、総会当日田中氏の講演をはじめ、会場は全国の日本女医会会員で満杯となりました。総会は成功しましたが、今後の課題も浮かび上がりました。神奈川支部の発展のためにどのような活動をすべきか、若い先生方に入会していただかなければならないと思いました。その頃から、かつては4000人いた日本女医会の会員数は徐々に減っていくばかりでした。日本女医会設立の頃は女性医師や女性全般の社会的地位向上や研鑽を目標としていたようですが、徐々に「楽しい」に様変わりして行った事が会員数を減少させたのではないかと思います。


現在、前田会長はじめ、役員の多くが日本女医会の再出発として女性医師並びに女性の地位向上を目指し、世界に追いつくよう女性地位を少しでも上げていきたいとの協議がなされていると伺いました。


神奈川市部長を拝命して

素晴らしい才能を兼ね備えていらした先輩の先生方も年齢と共に気持ちの負担が伝わってきました。大竹輝子先生も支部長を辞退されて、骨折後まもなくご逝去されました。次の支部長は山崎康子先生に変わられたのですが、総会の席上で倒れられてからは、私が支部長に推薦されました。


支部長になった最初の仕事は、途絶えていた会誌「神奈川支部だより」の発行に取り掛かりました。しかし、並行して抱えていた母校の同窓会支部会誌発刊と重なり、ミスが多くなりました。そうこうしているうちに新型コロナウィルス感染症のパンデミックが生活を一変させ、私自身の大腿骨頸部骨折が重なり、活動が停滞してしまいました。今はただ会員の先生方への責任を感じております。


最後に、先輩稲生襄先生は100歳の長寿を全うされて2021年にご逝去されました。先生から「なんでも記録に残す事、覚えているようで必ず忘れます。」の言葉を肝に銘じて残された人生を大切にしながら新体制の日本女医会の発展を願っております。


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