第4回 山崎トヨ先生
ご略歴
1969年3月 東京女子医科大学卒業
1969年4月 東京女子医科大学附属第二病院小児科入局 (1975年2月~1978年4月同医局長)
1978年5月 双愛病院(大宮市)小児科医長
1979年10月 山崎小児科医院開業、院長
1989年4月 作新学院大学女子短期大学部非常勤講師(小児保健)
1994年4月 宇都宮大学教育学部家政科非常勤講師(小児保健)
2000年5月 日本女医会理事
2006年5月 日本女医会副会長
2012年5月 日本女医会監事
2016年5月~2022年5月 日本女医会栃木支部支部長
2022年5月 荻野吟子賞受賞
2022年10月2日 宇都宮の喫茶店「美留久(みるく)」でお話をうかがいました。
医師を志したきっかけを教えてください。
高校生の時に読んだ「シュバイツアー1)日記」に感銘し医師を志しました。 私は農家の末っ子で、両親が42歳の時に生まれました。末っ子だったせいで、とても自由に育てられ、医学部に行きたいと言ったら、それも許してくれました。村会議員をしていた父は、いつも「人のために尽くす人になれ」と言っていました。3年浪人して漸く、東京女子医科大学が受け入れてくれました。 6年間「学生寮」に入り、私は寮生の最後の学年でした。「学生寮」は、当時としては冷暖房完備の立派な鉄筋4階建てでした。部屋は4人部屋で、違う学年の組み合わせでした。6年間の「学生寮」での共同生活の中で、規律を守ること、我慢をすること、助け合うこと、相手の立場にたって考えることなどを学びました。22時の門限は絶対でした。「マニュキアは学生さんのするものではありません!」と寮母さんににらまれた時代でした。でも素晴らしい青春の時間でもありました。夜中、屋上で星空を眺めながら「リルケ」を語り、恋愛談議に花を咲かせたことなど忘れられません。そしていつも個性的で立派なロールモデルを身近に感じていました。 医師を志す者にとって、学生時代に「寮」生活を経験することは大変有益であると思います。 中学高校とも部活は卓球部でしたので大学でも続けました。昭和41年には東日本医科総合体育大会で団体戦とダブルス戦に優勝、個人戦では準優勝のため3冠王とはなれませんでしたが、良き卓球人生でもありました。当時、部活の資金源として各大学でダンスパーティーを開催していました。ダンスを踊ったことがない私は、部長としての責任もありダンスを習いに教習所や劇場へ通いました。そこで出会ったのが主人でした。結婚は墓場ではありませんでした(夫は墓場だと言っていますが)。
1)アルベルト・シュヴァイツァー(1875-1965):アルザス人の医師、神学者、哲学者、音楽学者、博学者。30歳時に医療と伝道に生きることを志し、中部アフリカのガボンにおいて、住民への医療などに生涯を捧げた。日本においては内村鑑三などによって古くから紹介され、その生涯は児童向けの偉人伝において親しまれている。医師の仕事以外に哲学でも業績を残し、「生命への畏敬」の概念で世界平和に貢献した。
小児科を選択した理由を教えてください。
いずれは開業したいと望んでいましたが、女性医師として小児科か産婦人科が良いのではないか? どちらにするかとても迷いましたが、最終的には昭和44(1969)年に女子医大附属第二病院(現・東京女子医科大学附属足立医療センター)の小児科に入局しました。草川小児科2)の初めての新卒新入局員5人の中の1人でしたが、とても大切に育てていただきました。病室は常に豊富な症例に満ち溢れ、臨床医となるにはこの上なく恵まれた環境でした。特に草川教授が厚生省(現・厚生労働省)の川崎病研究班長をされていたときでもあり、全国からの川崎病の患者さんがどんどん集まってきました。
しゃっくりが主訴で入院してきた新生児化膿性髄膜炎女児は3日間意識がなく、父親は棺も用意してしまったのですが、奇跡的に助かり、その後28歳の結婚式に招待され、翌年元気な赤ちゃんを出産できたことは信じがたい大きな喜びでした。患者さんの成長を見られることは小児科医になった大きな幸せであります。
在局中に子供を3人出産しました。教授をはじめ医局内での理解や協力がありましたが、不器用な私は、夫と姉夫婦と相談し、子育てをあきらめ仕事に専念することにしました。
休日だけの母親に子供は当然懐かず、添い寝をすると嫌がられたり泣かれたりして悲しい思いもしました。
昭和53(1978)年5月、大宮市の双愛病院小児科医長を経て、昭和54(1979)年10月に地元の宇都宮市で開業しました。開業して44年目になりましたが、診療を休んだのは実兄の告別式の当日のみでした。夫は医師ではないので仕事を代わることは出来ず、私は点滴をしながら診療することもありました。大きなトラブルもなく現在まで過ごせたのは幸運でした。平成30年に息子が帰ってきて院長を継いでくれたので、精神的にも肉体的にもかなり楽になりました。
2)草川小児科:昭和42年(1967年)に新装となった東京女子医科大学附属第二病院小児科に草川三治先生が部長として赴任した。日本女医会会員であった石原幸子、森川由紀子がスタート時の医局員であった。女子医大卒業の山崎トヨ先生をはじめ4名、千葉大卒業の男性医師1人が昭和44年に新卒新入局員として入局した。
日本女医会入会されたきっかけを教えてください。
当時は当然のように卒業と同時に日本女医会に入会しました。卒業してしばらくは忙しくて日本女医会の活動に積極的に関わったことはありませんでした。平成9年に当時日本女医会副会長だった医局の先輩の石原幸子先生に、栃木で総会を開催してもらえないかと声をかられました。平成10(1998)年に第43回定時総会3)を開催させていただくこととなり、臓器移植をテーマに講演をしていただき良い評価をいただきました。総会開催をきっかけに日本女医会の活動が活発になり、平成12(2000)年には理事の丸茂畠子先生(群馬)と副会長の石原幸子先生(東京)の推薦で理事になりました。平成18(2006)年から副会長、平成24(2012)年から監事を勤めました。
3)第43回日本女医会定時総会:大平民子支部長の下、 栃木県宇都宮市・宇都宮ロイヤルホテルで開催され、会員126名、非会員も含めると150名が参加した。東京女子医大名誉教授であった太田和夫先生による講演「臓器移植をめぐる諸問題」が行われた。
日本女医会に入会して、最も記憶に残っていることはなんですか。
日本女医会には長い間関わってきましたので、いくつも素晴らしい思い出があり、5つ挙げさせて頂きます。一番は平成10(1998)年に第43回定時総会を宇都宮で開催させていただいたことです。その準備会の共同作業を通して、支部会員間の相互理解が生まれ、出身校も年齢も超えた仲間を得ることができました。二番は日本女医会栃木支部の会報創刊号が会員の協力と努力で昨年出来上がったことです。三番は日本女医会100周年記念式典で皇后様(現・上皇后様)に間近にお目にかかれたことです。四番は国際女医会創立100周年4)で令和元(2019)年にニューヨークに行ったことです。五番は昨年、荻野吟子賞をいただいたことです。 来年は25年ぶりに栃木で第68回定時総会を開催させていただきますので、栃木支部は一丸となって準備を進めています。たくさんの会員の先生に栃木に来ていただけるのを楽しみにしています。
4)国際女医会創立100周年: 2019年7月25〜28日に創設の地であるニューヨーク・ブルックリンで第31回国際女医会議として開催された。日本からは会員24人、非会員1人、家族など5人で計30人が参加した。50年以上の会員に送られるGolden Jubilee(50周年記念日のこと)賞は、日本人では21人が受賞し、栃木支部長の山崎トヨ先生もその1人であった。
最後に山崎先生から日本女医会の後輩に伝えたいことをお聞かせください。
私はこれからも、身近にいる女性医師に日本女医会について、少しでも伝えていければと思っております。
日本女医会は120年という長い歴史を持つ世界最古の女性医師の会です。かつて女性医師誕生には、はかり知れない苦難の道のりが続いたと伝えられています。そのような中、日本女医会は、今日まで多くの公益事業を行ってきました。10年前に公益社団法人に移行してからは、10以上の公益事業を行っていますので、積極的に関わって欲しいです。事業に参加してくださることが、新しい出会いや楽しい有意義な出会いの場となり会の発展にもなるのです。
また、「社会にものが言える日本女医会」にも誇りを持って欲しいです。さらに、日本女医会は国際女医会と唯一つながっていることも素晴らしいことですので、後輩には国際的な活動を広げて欲しいと願っています。
日本女医会には学術研究助成制度があり、公益法人に移行してからは全ての女性医師が応募できるようになりました。また、顕彰事業として日本女医会吉岡彌生賞と荻野吟子賞があり、今までに吉岡彌生賞は97人と1団体、荻野吟子賞は37人に授与されています。是非積極的に応募していただきたいと思っています。
女性医師が年々増えているにもかかわらず、会員減少が続いている現状を大変危惧しております。活性化のためには、学会や医師会の会合の際に日本女医会の存在を知ってもらい、女性医師同士の共感を得られれば入会につながるのではないかと思います。私自身も昔、先輩から声をかけていただいた時には、緊張とともに嬉しくもありました。個人的には故石原幸子日本女医会元副会長の日本女医会に対する熱い思いと奉仕の姿に惹かれ、導かれて参りました。
ジェンダーフリーが叫ばれる昨今ですが、女性医師への不平等もまだまだ解消されていません。これからも日本女医会がかけがえのない拠り所としての役割を果たすためには、和解力が原動力となるはずです。伝統ある日本女医会に感謝と誇りの念を持って、次の世代に繋いで欲しいと願うばかりです。
インタビューを終えて。
栃木支部総会の開催日にインタビューをさせていただきました。高校生の時に医療だけでなく社会に貢献をするシュバイツァーに感銘を受けられたということが、いつも優しくて度量が大きい山崎トヨ先生のルーツなのだと知ることができて感激いたしました。日本女医会との関わりが長くて深い山崎先生が後輩に伝えたいことをしっかり受け止め、今後の日本女医会の活動をさらに社会に貢献できるものにしていきたいと改めて心に誓いました。
Comments