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温故知新インタビュー

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番外編 東京大空襲から75年

番外編 東京大空襲から75年

東京大空襲から75年、戦争を繰り返さないために日本人が今向き合うべきこと
公益社団法人日本女医会会長 前田佳子

第二次世界大戦終戦から今年で75年が経過する。「唯一の被爆国」と表現される日本では、米軍による広島と長崎に対する原爆投下は誰もが認識しているにもかかわらず、国連で2017年7月7日に122カ国の賛成で採択された「核兵器禁止条約」を批准していないことが問題視されている。一方、第二次世界大戦が終結した9月2日の約半年前の3月10日〜5月26にわたる東京大空襲に関しては、スポットライトが当たっていないという現実がある。東京大空襲で失われた命は10万人以上であり、その多くの身元が判明しておらず、遺骨は関東大震災の死者とともに東京都慰霊堂に安置されている。

東京大空襲とは第二次世界大戦末期に米軍により行われた、東京都区部に対する焼夷弾を用いた大規模な戦略爆撃の総称である。1945年(昭和20年)3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日-26日の5回は規模が大きく、特に3月10日の城東地区に対する夜間空襲(下町空襲)では死者数が約10万人であった。「ミーティングハウス2号作戦」と呼ばれた3月10日の大空襲では、279機のB29によって1665トンの焼夷弾(ナパーム弾)が江東区・墨田区・台東区・中央区に投下された。3月10日は延焼効果の高い風の強い日と気象予報されており、米軍は木造家屋が多数密集する下町の市街地を、そこに散在する町工場もろとも焼き払うことを計画した。この地区の町工場は住宅と一体化しており、ネジなどの飛行機の部品を生産して軍需産業を支えていた。飛行機の生産に打撃を与えるとともに、家族もろとも命を奪うことで日本人の戦意を喪失させることが目的だったと言われている。

「東京大空襲・戦災資料センター」は東京都江東区北砂1丁目にあり、公益財団法人政治経済研究所の付属博物館となっている。1970年から活動をしてきた「東京大空襲を記録する会」は、美濃部亮吉東京都知事の時代から東京都の運営する「平和記念館」へ移行することが検討されてきたが、1999年石原慎太郎が都知事に就任した年に計画は凍結された。そこで民間募金を呼びかけ、一篤志家(慈善家)より提供された土地に2002年3月9日に設立した。その目的は、東京大空襲をはじめとする空襲や戦争による一般民間人の被害の実相を明らかにし、それを伝えていくことで、二度と戦争の惨禍を繰り返すことなく平和な世界を築くことに貢献したいという願いが込められている。2020年はCOVID-19の感染拡大を鑑みて例年開催されてきた空襲体験者のイベントが中止となったが、幸運にも体験者の一人である二瓶治代(にへいはるよ)さんのお話を聞くことが出来た。

現在83歳の二瓶治代さん(治代さん)は小柄で笑顔の素敵なチャーミングな女性である。自宅のあった亀戸で空襲を体験したのは8歳、国民学校初等科2年(現在の小学校2年生)の時であった。すでに空襲が繰り返されていたため学校は休校になっており、3月9日は疎開から東京に戻ってきた友人と戦争ごっこをして夕方まで外で遊んでいた。「また明日」と別れたその深夜に大空襲は起こり、前日に遊んでいた友達と二度と会うことはなかった。両親、兄、妹の家族5人全員が3月10日の空襲から生き延びたが、その体験を他人に話すことは無かったという。2002年にオープンした「東京大空襲・戦災資料センター」を訪れた治代さんは、センターの職員に誘われ、以後17年間自身の体験を語り続けている。

防空法は1937年10月1日に施行された法律である。戦時または事変に際し航空機の来襲(空襲)によって生じる危害を防止し、被害を軽減することを目的として制定され、終戦後の1946年1月31日に廃止された。軍以外の民間などによる防空活動に関する法律で、国民は燈火管制・消防・防毒・救護活動・防空訓練を義務付けられ、1941年の改正で空襲時の避難禁止と消火義務が追加された。この法律によって避難が遅れ、多くの国民が空襲の犠牲となった。
3月10日の空襲の時も治代さんと母、妹は防空壕に逃げ込んだが、中学生の兄は学徒動員先の軍需工場へ、父は外で消火を続けた。しかし周囲が火の海となったため、治代さん一家は強風の中を亀戸の駅に向かって逃げた。京葉道路はまるで火の川のようになっており、火の粉が飛び交う中多くの人が風に飛ばされるように駅に向かっていた。途中で総武線の土手に登った治代さんは燃えるような街の空に、壁のように降り注ぐ焼夷弾を見た。今でも忘れられないのは、母親に背負われたまま火が燃え移った赤ん坊、背負った荷物に火がついて体ごと焼けてしまった1頭の馬とその飼い主である。熱いだろう、苦しいだろうという感情は湧いてこなかったが、炎の中に揺れる自分のお雛様が脳裏をよぎった。
再び駅に向かった治代さんは被っていた防空頭巾に火がつき、それを脱ぐ時に父とつないでいた手を離した。強風に飛ばされていつの間にか家族と離れてしまい、歩き回るうちに気を失って倒れてしまった。誰かがしゃがんで抱えてくれたが、その上に何人もの人が倒れて重なり合った。「俺たちは日本人だ、死んでたまるか生きるんだ、日本人、大和魂・・・」という声が遠くから聞こえては消えた。2時間半の空爆が終わっても、街を焼き尽くすまで炎は燃え続けた。人の下敷きになっていた治代さんが助け出されたのは6時近かっただろうか、遠くから聞こえていたのは父の声だったとわかった。治代さんはその小さな体の上に折り重なるように倒れ、焼け焦げてしまった大人たちに命を救われたのであった。

最後に

1時間にわたる体験談の最後に治代さんはこう語った。
戦争は多くのものを破壊し、生き残った人の優しい心も壊してしまう。二度と繰り返してはならない。75年の歳月が流れ、両親も兄もこの世を去ったが、一面が焼け野原となったあの日のことは片時も忘れることは出来ない。3月10日を迎え慰霊堂で手をあわせると、心は一瞬にして75年前に戻ってしまう。あの頃子供は、日本が戦争に負けていたのに勝っていると教えられ、日本は神の国だから神風に助けられると教えられ、それを信じていた。最近の日本は事実を隠したり、書き換えたり、嘘をついたりしていて、戦争をしていた頃ととても似ていて、悪い方に進んでいくのではないかという不安を感じる。これからを生きる若い人たちには、本当のことを知ろうとする気持ちを忘れず、ダメなものはダメとはっきり言えるようになって欲しい。

1941年12月8日東条英機首相は開戦に当たって「米国に対し日本はあくまで平和的妥結の努力を続けたが、米国は何ら反省の色を示さず現在に至った。」とした上で、「一億国民が一切を挙げて国に報い、国に殉ずるの時は今であります。」と述べている。さらに、国民の人権を無視した防空法を制定し、より多くの命が奪われることになった。第二次世界大戦では、米軍による日本本土無差別爆撃によって、およそ50万人(政府はまともな被害調査をしなかったため正確な数は不明)が亡くなった。保護者を失った戦災孤児らを加えれば、被害者は数十倍にも及ぶと言われている。
「東京大空襲・戦災資料センター」を訪れる人が減っているという。近年、戦争体験者の高齢化に伴って治代さんのような語り部を失いつつあり、直接お話を聞く機会もどんどん失われている。戦争を知らない世代が同じ過ちを繰り返さないために、私たちは今こそ歴史と向き合わなくてはならない時を迎えている。次の世代に伝えていくために、最大限の努力をするのが私たちの責務である。

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