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温故知新インタビュー

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番外編 大島青松園訪問

東條 髙さん

東條 髙さん

脇林 清さん

脇林 清さん

ハンセン病家族補償法が成立、大島青松園を訪問して今思う事
公益社団法人日本女医会会長 前田佳子

記録によると日本女医会は1935年に全国に寄付を募り、沖縄のキリスト教者による救らい協会(沖縄MTL)に救助費として三百圓(現在の60万円相当)を寄付しています。1931年に「癩予防法」が制定された直後であり、ちょうど隔離政策が積極的に進められていた時期にあたります。

2019年11月15日ハンセン病家族保障法が参議院本会議において全会一致で可決・成立しました。ハンセン病はかつて「癩(らい)病」と呼ばれ、医療や病気への理解が乏しい時代に、その外見や感染への恐怖心などから、患者への過剰な差別が生じた時に使われた呼称で、遺伝病や不治の病であるという誤った認識が広がりました。絶対隔離が進められ、家族にも社会にも切り離されていったハンセン病患者さんについて、私たちは知って伝えていくことが必要であると感じています。

国立ハンセン病療養所のひとつである大島青松園を訪問してまいりましたので、報告させていただくとともに、ハンセン病の歴史を振り返ってみたいと思います。

ご協力いただきました、国立ハンセン病療養所大島青松園の十河英世先生、国立感染症研究所ハンセン病研究センター感染制御部第7室室長の森修一先生に感謝申し上げます。

松本清張「砂の器」新潮社 より抜粋

「乞食のことです。この地方ではそげなふうに言っちょうおましが、それが子供連れでこの 村に入ったことがあアまし。三木さんはそれを見つけて、直接にこの癩病の乞食を隔離いて、 その子供は寺の託児所に預けましたがね。そげな面倒も細かく気のつく人でした。

「何もかもご存じのようですから、隠さずに申しますと、千代吉がああいう病気になってから、 すぐに妹は別れました。まあ、妹のやり方も不実なところがありますが、 病気が病気だから 仕方がないでしょう。ところが、千代吉は子煩悩で、秀夫を連れて旅に出ていったのです」「それは、何年ごろですか?」「確か、昭和九年(1934年)ごろではないかと思います」「千代吉さんが出ていかれたのは、どこか当てがあったのですか?」「はい、当てというほどではありませんが、ああいう病気によく効く寺まわりをはじめたのです」「それでは、全国をまわられたわけですね。つまり、お遍路みたいなことですね?」

ハンセン病家族訴訟、政府控訴せず 首相表明

日本経済新聞電子版 2019年7月9日

国が続けたハンセン病患者の隔離政策によって家族も差別を受けたとして家族らが国に損害賠償を求めた訴訟で、安倍晋三首相は2019年7月9日、国の責任を認め、計約3億7千万円の賠償を命じた熊本地裁判決を受け入れ、控訴しないと表明した。元患者の家族を巡り、国の立法不作為や対策義務違反を初めて認めた判決が一審で確定する。

6月28日の地裁判決は隔離政策によって患者家族に就学・就労の拒否、結婚差別などの被害が生じたなどと判断。遅くとも1960年には隔離政策を廃止する義務があったのに怠ったとして国の立法不作為も認定した。また原告が差別被害の加害者が国であると認識することの難しさを認め、時効で賠償請求権が消滅していたとする国の主張も退けた。

元患者本人の訴訟では2001年、熊本地裁判決が隔離政策を違憲として国に賠償を命じ、当時の小泉純一郎首相が控訴を見送り確定。「極めて異例の判断だが、早期に全面的な解決を図ることが必要」との首相談話を公表した。その後、本人の被害を補償する制度が創設されたが、家族は対象外だった。

ハンセン病とは

「らい菌(Mycobacterium leprae)」によって引きおこされる感染症である。らい菌は1873年にノルウェーのアルマウェル・ハンセン博士によって発見されたため、今日ではハンセン病という名称が使われるようになった(Hansen's DiseaseまたはLeprosy)。皮膚と末梢神経を主な病変とする抗酸菌感染症で、現在は途上国を中心に患者がいるものの、日本では毎年日本に来ている外国人労働者を含めて数名の新規患者の発生で、過去の病気になってきている。しかし、感染症法の前文には「我が国においては、過去にハンセン病、後天性免疫不全症候群等の感染症の患者等に対するいわれのない差別や偏見が存在したという事実を重く受け止め、これを教訓として今後に生かすことが必要である。」と記載されている。

らい菌の毒力は弱く、発病に繋がる感染源は、おもに菌を多くもっている未治療患者からのヒト対ヒトの飛沫感染といわれている。感染成立に重要なのは乳幼児期で、その時期の濃厚で頻回な感染を受けた者以外ではほとんど発病につながらない。感染から発病までには、その人の免疫能、栄養状態、衛生状態、経済状態、菌量、 環境要因など種々の要因が関与するため、長期間(数年~数十年)を要し、万一感染しても、発病せずに一生を終えることがほとんどであり、遺伝病ではない。治療の基本は、不可逆的な後遺症となる神経症状(神経炎、らい反応、後遺症などでおこる)を起こさず、らい菌を生体から排除することである。治療は世界保健機関(WHO)の推奨する複数の抗菌薬[リファンピシン(RFP)、ジアフェニルスルフォン/ダプソン(DDS)、クロファジミン(CLF)]を内服する(多剤併用療法, MDT)ことで治癒する。

知っておくべきハンセン病の歴史

1900年 政府が行ったハンセン病患者一斉調査で、患者数は3万人超と推定。

1907年 日本初のハンセン病対策法「癩予防ニ関スル件」(法律第11号)が制定・発令。

1909年 全国を5つの地域に分けてそれぞれに療養所が設立。当時の収容対象は放浪患者であった。同じ年に第2回国際癩会議が開催され、「らい菌の感染力は微弱で、必ずしも絶対隔離を必要としない」とされたにもかかわらず、日本における隔離政策はむしろ強化されていく。

1931年 「癩予防法」が制定され、在宅患者に対しても絶対隔離が本格化。

1939年 岡山県は「癩病根絶計画」を策定し、無らい県運動が本格化。

1940年 熊本県本妙寺周辺の患者集落を警察官ら250人が襲撃し、患者を強制収容する「本妙寺事件」が起こった。

1942年 岡山県は「無らい県」として、らい予防協会から表彰。

1943年 国カーヴィル療養所(1894年に開設された米国本土で唯一のハンセン病療養所)で「プロミン(一般名:グルコスルホンナトリウム、ハンセン病治療薬)」の効果を確認。

1947年 厚生省が長島愛生園(岡山県)でプロミン治療を開始。

1948年 「優生保護法」が公布され、ハンセン病患者への優生手術が合法化された。国会では、東龍太郎厚生省医務局長が隔離政策から治療推進への転換の必要性を言及。

1951年 山梨県で癩病を疑われた男性が一家心中をしたのをきっかけに、全国国立癩療養所患者協議会(全癩患協、のちに全患協)が発足。

1952年 全癩患協が「らい予防法改正促進委員会」を発足。WHO(世界保健機構)では第1回らい専門委員会が隔離の見直しを提言した。

1953年 法律第214号「らい予防法」が施行され、旧来どおりの強制隔離条項などに全国で反対運動が起こった。

1956年 ローマ国際会議でハンセン病に対する差別的法律の撤廃を決議、日本の「らい防法」の廃止を勧告した。

1982年 WHOがハンセン病治療プランを発表し、完治する時代となった。

1996年 菅直人厚生大臣が全患協に「らい予防法」廃案の遅れに対する謝罪を表明し、廃止された。

1998年以降 「らい予防法」違憲国家賠償請求訴訟が全国で始まった。

2001年 熊本地裁が「らい予防法」を違憲とする判決をし、「ハンセン病療養所入所者等に対する補償金の支給に関する法律」が公布・施行された。
しかし、「らい予防法」が廃止された後も、入所者の社会復帰対策はわずかしか進んでいないのが現実である。「ハンセン病は社会との関係を抜きにしてはこの疾患の本質を理解することはできない」と言われており、法律だけで解決できるのはごくわずかな部分であろう。

白砂青松に囲まれた美しい大島

日本国内にある国立ハンセン病療養所は現在13カ所で、その全てが海や森に囲まれた美しい場所である。その中の一つ、香川県高松市大島にある大島青松園を訪れた。大島は高松港から船で約30分、白い砂浜が広がり美しく穏やかな瀬戸内海に囲まれた島で、元々は2つの島が砂洲でつながってできたひょうたんのような形をしている。島全体が療養所となっており、現在島に住んでいるのは療養生活を送っているハンセン病回復者の方々と療養所の職員だけとのことである。2010年から大島は瀬戸内国際芸術祭の会場となり、多くの観光客が訪れるようになっていることは社会とのつながりを再開させる一助になっているのではないかと推測される。

高松港第一浮桟橋から官有船「せいしょう」に乗船し、窓の外に広がる美しい青い空と海に浮かぶ島々、右手に屋島、左手に女木島と男木島を見ながら大島港まで8.2kmの旅はあっという間だった。船が大島港に着くと、今回の訪問を快く受け入れていただいた大島青松園に勤務する十河(そごう)英世先生が出迎えてくださった。

青松が茂る門を通って療養所の敷地に足を踏み入れた。所長の岡野美子先生は笑顔が素敵な先生で、専門は眼科、前任地は岡山の施設である。私は7月に国が熊本地裁の判決を受け入れたことを知り、ハンセン病の療養所を訪問させていただきたいと思ったことを伝えた。1909年に「第4区療養所」として開設され、1946年から現在の名称「国立療養所大島青松園」となって今年で設立110周年を迎え、最大時860床となっていた入所者は現在52人とのことであった。今回、住居棟で生活されている2人から直接お話をうかがうことができた。

東條 髙(とうじょう たかし)さん

1947年に17歳で入所され、大島で72年を過ごしてきた。26歳の時にキリスト教霊交会で洗礼を受けられ、賛美歌を歌うようになった天使の歌声を持つ男性である。入所当時から病状は軽く若かったため、療養所内の仕事やスポーツ、バンド活動もされていた。64年間連れ添った妻の康江さんは4年前に神に召され、お目にかかることは叶わなかった。2003年に制作された東條さんの歌声が11曲収録された賛美歌集「生かされて」は、シンガーソングライターの沢知恵さんが協力して発表された。沢さんは2001年から大島青松園でコンサートを行い、入所者の方々と交流を続けている。2015年にリニューアルしたアルバムを頂いて、聞かせていただいた。どの賛美歌も美しく温かかったが、「ゆけどもゆけども」は特に胸に響いた。

脇林 清(わきばやし きよし)さん

10代で入所され大島で人生のほとんどを過ごし、現在も妻とともに生活されている。長年にわたり園内の沢山の瞬間をカメラで切り取り、心に焼き付けてきた。イベントがあると写真で記録し、コンピューターを操ってアルバムに仕上げてゆく。大島青松園110周年記念のアルバムをいただいた。最初のページをめくると、「共に在る全ての生命は一つ、巡り会う生の道も一つ、愛するものの全一な歓びは愛されるものの全一な歓びの恵みでもあるもの・・・・・・・・・・感謝。」と記されている。脇林さんの写真一枚一枚に切り取られた大島の風景と植物には、溢れんばかりの命が輝いていた。

ハンセン病患者さんの結婚

今回お話をうかがった入所者の方は二人とも結婚されていたが、調べると「入所者同士の結婚では断種が原則」と記載されている。国立感染症研究所ハンセン病研究センター感染制御部第7室室長の森修一先生によると、戦前は世界では患者に対して男女別隔離、結婚禁止の対策が行われていたが、日本では結婚を許可し、出産を認める例も多かった。一方、希望者には断種手術も行っていた(非合法)。前者は子供の養育、就職の困難などの理由でしだいに少なくなり、後者が療養所での結婚の前提となっていった。戦後は優生保護法にハンセン病患者の堕胎が含まれるようになった。しかし、出産を希望する方は外で出産し、実家や社会復帰などで対応していたケースもあり、園内でも各園では少数ながら認めていた事例(東北新生園、多磨全生園など)がある。奄美和光園では1947年以降は入所者の方々に出産を許可し、キリスト教の組織の協力を得て、中学卒業まで養育を行うシステムで57名の子供達が育っている(文献:ハンセン病患者から生まれた子供たち)。

結婚にもいろいろなケースがあり、外に配偶者がいるが園内で入所者と夫婦になる方(事実婚)、正式に結婚する方(戸籍上も夫婦)などがいた。この様に療養所では社会から切り離されてなお、寄り添って生きる家族を持つ事すら簡単ではなかった事は辛い現実であっただろう。

ハンセン病家族補償法 成立「国会および政府は深くおわび」
NHK NEWS WEB 2019年11月15日

ハンセン病の元患者の家族に対する差別被害を救済するため、最大で180万円を補償するなどとした法律が、15日の参議院本会議で全会一致で可決・成立しました。この法律は、ハンセン病患者の家族への差別被害を認めた集団訴訟の判決を受け、超党派の「国会議員懇談会」などがまとめたもので、15日の参議院本会議で全会一致で可決・成立しました。法律では、国の責任を明確にするために、前文に、「国会および政府は、深くおわびする」などと記しています。

そして、裁判に参加していない人も含めて幅広く補償し、元患者の配偶者や親子には180万円、きょうだいや同居していた親族には130万円を支払うなどとしています。また、15日の本会議では、ハンセン病をめぐる差別の解消に向けた啓発を行うため、名誉回復の対象に「家族」を加える「改正ハンセン病問題基本法」も成立しました。

補償金の請求期限は、法律の施行日から5年以内となっていて、本人の請求に基づいて支給の手続きが進められ、早ければ来年1月末には支払いが始まる見通しです。

最後に

東條さんも脇林さんも「青松園で生活しているからこうして長生き出来ている」と語った。しかし、今回新たな法律によって本人や家族に賠償金が払われたとしても、「らい予防法」によって家族から、そして社会から隔離された何十年もの歳月を取り戻すことは決してできない。ハンセン病患者さんが生き抜いてきた歴史を知り、社会が犯した過ちを反省し、今後も次の世代へと伝えていくことを止めてはいけない。私はこれからもハンセン病療養所を訪問し、生の声を聞き、感じ、多くの人に伝えたいと考えている。

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