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温故知新インタビュー

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第3回 石原幸子先生

第3回 石原幸子先生

ご略歴

  • 1948年 東京女子医科大学予科入学
  • 1951年 東京女子医科大学本科入学
  • 1955年 東京女子医科大学卒業
  • 1956年 東京女子医科大学第一外科入局
  • 1965年 トルコ共和国国立エーゲ大学心臓外科助手
  • 1967年 東京女子医科大学附属第二病院小児科入局
  • 1969年 石原医院開業
  • 1985年 日本女医会常任理事
  • 1997年〜2006年 日本女医会副会長
  • 2001年 練馬区社会福祉功労賞
  • 2002年 東京女子医科大学附属第二病院小児科同門会奨励賞
  • 2016年 日本女医会吉岡弥生賞受賞

2019/8/12 軽井沢の別荘でお話をうかがいました。

日本女医会入会されたきっかけを教えてください。

日本女医会には卒業と同時に入会しました。当時は女子医大を卒業すると当然のように勧誘されて、同窓会である至誠会と日本女医会の両方に入会して居りました。東京女子医大は私学だったので予科2年、本科4年、インターン1年の計7年の卒業でした。1944年に「日本女医会誌」第118号を発行したのちは、戦争による物資の不足で紙が手に入らなくなり、1954年まで活動休止となりました。1947年11月〜1951年8月の間、吉岡彌生先生はRed purge(レッドパージ)1)のために公職を追放されて居られましたが、翌1952年3月に女子医専から世界で唯一残る女子医学校に昇格した東京女子医科大学の学頭(理事長)に就任されました。しかし日本女医会の活動再開を目前にした1954年8月に軽井沢の別荘で倒れられたのですが、1955年5月に戦後初めての日本女医会総会が開催された折会長に就任されました。

1)共産党員やその同調者を職場、特に公職から追放すること。日本では1950年6月から、連合国軍総司令部(General Headquarters:GHQ)の指示によって行なわれ、20万人以上が追放された。赤狩り。

日本女医会で活動されるようになったのはいつからですか。

私が40歳の時に夫がトルコの国立エーゲ大学に留学したので、二人の子供を連れて一緒に留学しました。夫はエーゲ大学で心臓の手術の指導をしていたので、私も一緒に手術室に入って手伝いました。2年後に夫より1年早く帰国してから女医会に出席することが多くなり、1982年に女子医大の先輩である三神美和先生が会長の時に理事になりました。三神先生は人の話を聞かれた時は、よく考えてから判断する方でした。久保田くら先生は三神先生のために働かれましたが、正反対の性格で、どちらかというと攻撃的な方でした。 1985年からは常任理事になって、1997年から2006年まで副会長を務めました。2006年には「子育て支援委員会」2)を発足して、「どうしよう・・・子供の救急」の単行本を作成しました。

2)21世紀の子どものための小児救急医療の整備と提言事業として発足し、現在は小児救急事業として「どうしよう・・・子供の救急」の日本語版に加え英語版を作成、販売している。

吉岡彌生賞の創設の経緯について教えて下さい。

1967年に会長の龍智恵子先生が提案し、私の同級生の母親の荒川あや先生が翌年1968年に1000万円を寄付され、これを基金として吉岡彌生賞が創設されました。1969年の総会で第1回吉岡弥生賞は2名と1団体に授与3)されました。その後荒川先生はさらに1,000万円を追加寄付され、なかなか出来ないことだと感銘を受けたのを覚えています。荒川あや先生は彌生先生の愛弟子で、一人息子の故吉岡博人先生の奥様も荒川先生のご紹介だったそうです。私自身も2016年に吉岡弥生賞を受賞4)しました。

3)いずれも社会に貢献した会員として、森川みどり先生、牧野夫佐子先生、社会福祉法人鶴風会(龍智恵子先生ほか8人)が受賞した。

4)地域医療への貢献と日本女医会での長年にわたる功績を評価されて、社会に貢献した会員として受賞。同じ年に日本医科大学の湯澤美都子先生が眼科領域の黄斑疾患に関する業績が国際的にも評価されていることを受けて、医学に貢献した会員として吉岡弥生賞を授与された。

日本女医会に入会して、最も記憶に残っていることはなんですか。

日本で初めて開催した国際女医会議と、日本女医会100周年記念式典の2つです。1976年に日本で第15回国際女医会議5)を開催した時に予備理事になりました。当時理事の下に予備理事のような役職があり、橋本葉子先生が学術担当、私がお土産などの担当になりました。会議のテーマは「ウィルス性疾患とその後遺症」「地域医療における女医の役割」で、海外から400人以上の女性医師が参加しました。1998年には100周年記念事業の実施が決定されていました。事業の内容としては記念式典・祝賀会の開催、「百年史」の編集、日本女医会ロゴマーク6)の作成などでした。記念品のペンダントとタイピンは理事の村田郁先生がミキモトと交渉して作られました。2002年5月18日に京王プラザホテルで100周年記念式典7)が開催されました。美智子皇后がご臨席下さいましたので、何といっても警備が大変でした。招待した覚えはないのですが、デヴィ・スカルノさんがボーイフレンドを連れて出席されていたのを覚えています。

5)東アジア初の国際女医会議。京王プラザホテルで開催され、参加者は海外から444人、日本から640人であった。国際女医会継続50年会員として28人が表彰された。

6)現在の日本女医会のロゴマークは当時理事の村田郁先生(埼玉支部)の発案で記念事業の一環として2000年に作成されたもの。

7)式典には坂口力厚生労働大臣、坪井栄孝日本医師会会長、Shelley Ross国際女医会会長も参列した。皇后陛下はスピーチの中で「日本における女医の苦難の歴史」について触れ、今後の女医会の活動を見守りたいと述べられた。閉会の辞は石原先生が担当した。

最後に石原先生から日本女医会の後輩に伝えたいことをお聞かせください。

女性医師はみんなで協力して社会とともに生きていくことが大切です。日本女医会会員は力を合わせて女性医師の地位向上のために努力して欲しいと思います。

インタビューを終えて。

普段から親しくさせていただいている石原先生に改めてインタビューをさせていただき、ご自身も留学していたトルコでの苦労話や、日本女医会での人間模様など今まで聞く機会のなかったお話が聞けました。後輩への言葉としていただいた、社会に働きかけることの重要性には私も強く共感いたしました。時代が変わっても目指すものが変わらないということは、社会が変わっていない、女性の地位が上がっていないということです。まだまだ私たちがやらなければならない宿題が沢山あると再確認いたしました。

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